先日、月見草のことを書いた時に、大きな公孫樹の木に触れた。翌日そこを通った時に、当然あるべき公孫樹の木がないのに気づいた。その翌日もよく観察したがやはり無くなっている。同じ道を通るスタッフに聞いたが気づいていない。存在していたものが無くなると、その記憶も破壊されてしまうらしい。どの辺すらも不確かだ。こうして不必要になったことはなんとなく消されていって、新しい知識を吸収してゆくという、ホモサピエンスの、便利なような、怖いような特性かもしれない。
昨夜の記憶定かならざるまま覚めれば ここは深き杉山
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